セプター(Sceptre)は、1899年生まれのイギリスの元競走馬・元繁殖牝馬。
可能と知りつつも誰もやろうとは思わなかった「イギリス5大クラシック皆勤」という偉業を成し遂げたばかりかその内4つを勝利するというとんでもない戦績を残し、繁殖面でも後世に大きな影響を与えた、偉大なる女傑である。
概要
出自~2歳まで
父Persimmon(パーシモン)、母Ornament(オーナメント)、母父Bend Or(ベンドア)という血統。父はセントサイモン直仔のダービー・セントレジャー優勝馬、母は生涯無敗の三冠馬オーモンドの全妹、母父も競走・繁殖ともに一流というビカビカの超良血馬である。
オーモンドやベンドアを生産した当時の大馬産家・初代ウェストミンスター公爵の下で誕生したセプターは、血統背景も含めて紛れもなく「お嬢様」そのものだった。そのままいけばウェストミンスター公爵の下で走るか、もしくはそれなりの貴族の下へ売られるはずだったのだが……ウェストミンスター公爵はセプターが生まれた直後に死去してしまう。セプターは競売に出され、当時の1歳馬の記録の倍近くにもなる1万ギニー(それまでの最高記録は後の三冠牝馬ラフレッシュの5500ギニー)という途方もない価格でロバート・シービアという男に落札された。馬名は「王笏」という意味で、自身に箔を付けてくれる馬になるようにというシービアの願いが込められていた。
このシービアという男は雑誌の編集長だったが、一方で悪名高いギャンブラーとしても知られ、借金を抱えたり、もしくは大勝ちして莫大な資産を持っていたりということを繰り返しているような人物だった。当時の競馬は貴族たちの社交場であった半面、こうした山師めいた人物も跋扈する鉄火場でもあったということだろう。
さて、シービアはデビュー直前になって負債を抱えてしまい、同じセリで購入したデュークオブウェストミンスターという牡馬とセプターのどちらかを売却しなければならなくなった。初代ウェストミンスター公爵の専属調教師だったジョン・ポーター調教師が薦めた人物が本馬を購入しなかったため、セプターはシービアの所有馬として走ることとなった。ここで売却されていれば競馬史が変わっていただろうが、この馬主を持ってしまったことがセプターを競馬史に残る非常識な競走生活に導くことになる。
閑話休題、セプターは20世紀になったばかりの1901年にデビューすると期待に応えて2連勝。冬毛の影響で3戦目は3着に敗れたものの3戦2勝の堂々たる成績を収めた。誰の目にもセプターの才能は明らかであり、彼女の前には豊かな未来が広がっていることを人々は疑わなかっただろう。
超ハードスケジュール
ところが3歳になった頃、シービアとセプターを管理するチャールズ・モートン師が仲違いをするというアクシデントが起き、セプターがモートン厩舎を退厩する事態となってしまう。宙に浮いた本馬の管理はシービアが自分で行うと宣言し、先述のポーター師から調教場を借りて調教を始めた。
シービアは最初は調教助手を雇っていたのだが、3歳初戦のリンカンシャーハンデキャップで20ポンドも斤量が重い相手に短頭差で負けたのを不服に思ってこれを解雇してしまった。そしてシービアはなんと「じゃあ俺がやってやろう」とばかりにセプターを自分一人で調教し始めたのである。
そしてシービアはセプターに恐るべき命令を発するのである。曰く
5大クラシック全てを制覇せよ!
ところがクラシック1戦目の2000ギニーにて、セプターは強豪牡馬に2馬身も差をつけてレコード勝ちしてしまった。更に返す刀で2日後の1000ギニーに出走すると、ここでは出走前に蹄鉄が歪んで落鉄し、しかもシービアは装蹄師を雇っていなかったため蹄鉄無しでの出走となるアクシデントが起きたにも関わらず、馬なりのまま快勝した。
あまりの強さに続くダービーでセプターは1番人気に支持された。ところがレース10日前に脚を負傷していたことに加えて出遅れに見舞われてしまい、騎手が慌てて追走に脚を使いすぎたことも響いて、2000ギニーで3着に破ったアードパトリックの4着に敗れてしまった。しかしダービーの2日後のオークスでは当然のように3馬身ぶっちぎって優勝した。
その後もセプターには休みなど与えられず、まずフランスでパリ大賞典に出走。ここでは観客からの大ブーイングも災いして同国の女傑キジルクールガンの着外に敗退し、イギリスにトンボ返りして2日後のコロネーションSでも5着(4着という説も)に敗れた。しかしこの翌日に出走したセントジェームズパレスSでは勝利し、6月だけで5戦(フランス遠征含む)もこなしたばかりか、7月にはサセックスS2着、ナッソーS1着と続いて、ようやく1ヶ月間の休養を与えられたのは8月になってからだった。
そして秋初戦としてセプターはクラシック最終戦となるセントレジャーに出走。ここでなんとダービー2着馬ライジンググラスらの強豪牡馬に3馬身もつけて圧勝し、牝馬三冠+1……つまり「3歳クラシック4冠」というとてつもない偉業が達成されたのであった。実はクラシック4勝はセプター以前にフォルモサが1868年に達成しているので唯一の記録ではないのだが、フォルモサはダービーに出走していないし、2000ギニー1着同着の後の決勝戦に出走していないため、同馬をクラシック4勝馬として扱う資料は少ない。つまり、5大クラシック全てに出走した馬も、そのうち4つを単独で勝った馬も古今東西セプター以外に存在しないのである。もちろん馬に出るレースが選べるわけがないのだから、これはシービアが前代未聞のとんでもない馬主であったという記録にもなるのだが、勝ってしまうセプターも大概だろう。
セントレジャーの2日後のパークヒルSを2着としたセプターは3歳戦を12戦6勝で終えた。シービアは本職ではないだけにセプターの管理も実におざなりで、所用でイギリスを離れている間はセプターを馬房に入れっぱなしで放置したりしていたという。そんな状態でよくここまで活躍できたものである。
年末になって資金繰りが悪化したシービアはセプターを競売に出したが、最低価格に届かず主取りとなった。……これフラグです。
解放
さて、セプターはリンカンシャーハンデキャップを1903年初戦としたが、このレースで本馬は15ポンド以上も重いトップハンデとなり、それが響いて5着に敗退。それだけならまだしも、シービアはセプターになんと全財産を賭けており、哀れ破産。セプターも人手に渡ることとなった。シービアはこの後も反省せずにギャンブラーな生活を続けたとか……。
一方、新しく馬主になったウィリアム・バス卿と、新しい管理調教師のアレック・テイラー・ジュニア師はいたって常識的な人物で、ボロボロになっていたセプターにきちんと休養を取らせたのだが、ここでもシービアはぶちかました。あまりにも状態が悪いセプターを見て「この馬、どうすれば良いんだ」と訊いたテイラー師に向かって、シービアはこう言い放ったのだ。
二流品のように扱え
テイラー師がどうしたかは言うまでもないだろう。3ヶ月休養の後、セプターは復帰戦となるハードウィックSを単勝1倍台で迎え、5馬身差で快勝した。
そしてエクリプスSに向かったセプターだったが、このレースのメンバーが凄かった。セプターをダービーで破ったアードパトリック、後の三冠馬ロックサンドが出走しており、「Battle of Giants」と讃えられ、戦前から大盛り上がりの一戦だったのだ。セプターのものとあわせて7つのクラシックタイトルが輝く豪華なレースであった。
レースでは当然この3頭が抜け出し大激戦を演じた。セプターは直線でロックサンドを競り落としたのだが、そこへアードパトリックが強襲。猛然と追い上げた同馬に僅かに後れを取り、クビ差の2着に敗れた。
この後、セプターはジョッキークラブS、デュークオブヨークS、チャンピオンS、ライムキルンSと破竹の4連勝。デュークオブヨークSで1.62倍だった単勝オッズはチャンピオンSでは1.03倍、ライムキルンSでは1.01倍にまで落ちていた。ジョッキークラブSでは本馬より軽いハンデを与えたロックサンドを再び打ち破って四冠馬の貫禄を見せつけている。
5歳初戦は6月のコロネーションカップとなり、相手には3度目の対戦となるロックサンドと、同馬の同期で馬主の死によってクラシック登録が無効になるという不運に見舞われていたジンファンデルという有力馬がいた。ここではロックサンドこそ破ったもののジンファンデルの1馬身差2着に終わった。
続くアスコットゴールドカップでは再びジンファンデルとの対戦となったが、再び同馬に後れを取ったばかりか先に仕掛けた伏兵スローアウェイにも追いつけず、3着に敗れた。そしてハードウィックSではコロネーションカップから直行してきたロックサンドに4度目の対戦で初めて敗れて同馬の3着となり、これを最後に現役を引退した。
映像が残っていないのでどんなレースをしたのかは良く分からないが、勝つ時はぶっちぎって勝つタイプの馬であったようである。反面気性は良くなかったらしく、大負けすることもあった。その気性を裏付けるようなエピソードとして次のようなものがある。
彼女は非常に食事の好みにうるさく、黒いカラス麦は食べる代わりに白いカラス麦は食べなかった。ところがある日、いきなり白いカラス麦を気に入った。そこで厩務員は白と黒のカラス麦を混ぜて与えるようになった。また非常に気まぐれでもあり、同じ容器でも飼い葉を食べたり食べなかったりしていたという。
現代の日本で桜花賞→皐月賞→オークス→ダービー→菊花賞というローテーションを組もうものなら馬主と調教師は轟々たる非難を浴びるだろうが、それでもセプターのローテーションよりは余程楽である。それを踏まえると、動物愛護の精神の浸透、シービアのとんでもなさ、そして何よりセプターの偉大さがよりいっそう分かるのではないだろうか。
繁殖入り後
引退したセプターはバス卿の牧場で繁殖入りしたが、12歳時にバス卿が馬産から撤退してタタソールズ社の経営一族の一人であるエドムンド・サマーヴィル・タタソールという人物に売却されるとその後複数回転売され、最終的にロード・グラネリーという人物に購入された。繁殖牝馬としては直仔の成績こそ案外だったものの繁殖牝馬として初仔メイドオブミストらが大成功を収め、同馬を中心にファミリーラインは大きく広がった。セプターの牝系は日本にも伝わっており、牝系子孫にはスピードシンボリ、ダイナガリバー、サンビスタなどがいる。
1923年には高齢になったこともあってたったの500ギニーでブラジルに売却されかけるが、これを知った競馬ファンの懇願により売却は流れた。以後はタタソールらの庇護の下でイギリスで余生を送り、1926年2月に27歳で天寿を全うした。
血統表
Persimmon 1893 鹿毛 |
St. Simon 1881 鹿毛 |
Galopin | Vedette |
Flying Duchess | |||
St. Angela | King Tom | ||
Adeline | |||
Perdita 1881 鹿毛 |
Hampton | Lord Clifden | |
Lady Langden | |||
Hermione | Young Melbourne | ||
La Belle Helene | |||
Ornament 1887 鹿毛 FNo.16-h |
Bend Or 1877 栗毛 |
Doncaster | Stockwell |
Marigold | |||
Rouge Rose | Thormanby | ||
Ellen Horne | |||
Lily Agnes 1871 鹿毛 |
Macaroni | Sweetmeat | |
Jocose | |||
Polly Agnes | The Cure | ||
Miss Agnes |
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関連項目
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