ホシホマレとは、1936年生まれの日本の元競走馬、元繫殖牝馬である。栗毛の牝馬。
生産者:新田牧場、調教師:大久保房松、馬主:ハクヨウ(新田愛佑)
概要
父レイモンドはイギリス産の輸入種牡馬で現役時は13戦2勝でプリンスオブウェールズSとケンブリッジシャーSを勝ち、当馬の他に菊花賞馬トラツクオー、中山大障害を勝ったモモタロウの父として知られる。母父トリニチ―スクヱ―アはイギリス産の輸入種牡馬で産駒に4頭の帝室御賞典馬が居り、皐月賞馬クリヤマトの母父でもある。
当馬は大人の事情により史上最弱のオークス馬として歴史に名を残すこととなった。
デビューからオークス勝利まで
ホシホマレは1939年4月23日に横浜競馬場の新呼馬でデビュー戦を制した。次走は6日後の横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)で馬券を買ってくれた者が一人しかいなかったため、ロツクパークと同じ7番人気で事実上の最低人気である。レースはロツクパークが優勝した後ろで殿負けとなり明暗が分かれる結果となった。その後負けが続き、結局4連敗で東京優駿に臨んだ。ロツクパークが出走取消となったことを除けば同期のクラシックホース勢ぞろいの豪華なダービーでホシホマレは15着と惨敗した。
ダービー後に5戦するも全て敗退したが2着が2回あったためか2番人気で10月1日の阪神優駿牝馬(オークス)に駒を進めた。ようやく勝てる。ホシホマレはこのオークスを大差で2着に敗れた。あれ?勝利したのはこのオークスがデビュー戦であるヒサヨシだった。それからしばらくしてヒサヨシに興奮剤の使用が確認され、ヒサヨシは失格となり繰り上がりでホシホマレはオークス馬となった。そしてこれが始まりであった。
誰が為の栄光
ヒサヨシの鞍上武田文吾はドーピングなどしていないと日本競馬会に猛抗議し、大阪帝国大学も当時提唱した博士の名から田中式と呼ばれたリミニ氏法によるドーピング検査の非合理性を指摘。農林省馬政局が渋々検証実験を行った結果、馬房が汚れていてイラつくんゴ!飼い葉食べて元気いっぱいだお!という馬の気分に反応して陽性反応が( ^ω^)・・・滅茶苦茶やんけ!!
田中式はその年の秋だけで19頭の勝ち馬を失格処分にしており、当然それらの陣営は勝ち鞍を返せと大合唱、一方競馬開催を主導する軍部はうちらの責任になっちゃうから見なかったことにしろと圧力をかけてきて、正義と利権の両バサミに苦しんだ日本競馬会は田中式は廃止するが失格処分はそのままとする玉虫色の決着。結果、ヒサヨシは屈腱炎に苦しんだこともあって8戦0勝の未勝利馬として引退、1948年に行方不明となり歴史の闇に消えた。
星は輝かず
ホシホマレはその後21連敗。特に18連敗目の福島古呼馬ではクラシックホースにも関らず誰も馬券を買ってくれない単勝無投票という珍記録を達成する。彼女のヒールぶりが垣間見えるようだ。新潟古馬でデビュー戦以来1年5ヶ月ぶりの1位入線、そこから4連敗した後に福島古呼馬ハンデで勝利するも9連敗して芝に見切りを尽けて障害入り、14戦して2勝するも1941年10月遂に力尽きて引退、繁殖入りした。特に活躍する産駒も現れず1960年に死亡する。
生涯戦績62戦6勝。
しかし、彼女の物語はこれで終わりでは無かった。彼女の繁殖名はユーターピーノ一(ユーターピーノイチ、JBISのローマ字名アルファベットEuterpe-1であることや全妹の繁殖名がユーターピーノ二であることを考えるとユーターピーノーではないと思われる、紛らわしい)。
血統表
*レイモンド Raymond 1930 黒毛 |
Gainsborough 1915 鹿毛 |
Bayardo | Bay Ronald |
Galicia | |||
Rosedrop | St.Frusquin | ||
Rasaline | |||
Nipisiquit 1924 鹿毛 |
Buchan | Sunstar | |
Hamoaze | |||
Herself | Neil Gow | ||
Aida | |||
ユーターピー 1926 栗毛 |
*トリニチースクヱーア Trinity Square 1911 黒鹿毛 |
Simon Square | St. Simon |
Sweet Marjoria | |||
Lady Tertius | Tertius | ||
Symmentry | |||
玉姫 1916 鹿毛 |
*イボア Ebor |
Hackler | |
Lady Gough | |||
竹園 | *ラピアス | ||
*チツプトツプ |
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関連項目
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