ラッキールーラ(Lucky Ruler)とは、1974年生まれの日本の競走馬。黒鹿毛の牡馬。
現在も最大馬体重記録として残る534kgという巨体で「大尾形」に最後のダービーを贈り、種牡馬として韓国に送られたことでも知られる、マルゼンスキー世代のダービー馬。
概要
父*ステューペンダス、母トースト、母父ハクリヨウという血統。
父はアメリカのBold Ruler産駒で、重賞4勝、1966年のプリークネスS2着などの実績がある。1973年に日本に輸入され、ラッキールーラはその輸入初年度産駒の1頭。しかしラッキールーラがダービーを勝った矢先、便秘による腸の壊死で急死してしまった。
母は1962年の桜花賞2着のあと1964年に中山記念・毎日王冠など牡馬相手に重賞4勝を挙げ、天皇賞(秋)・有馬記念で2着という実績を残した60年代の女傑。ラッキールーラは第6仔で、結果的に最後の仔となった。
母父は1953年の菊花賞馬で、1954年には5戦全勝で天皇賞(春)を勝ち年度代表馬に輝いた名馬。種牡馬としてもトーストの他に皐月賞馬ヤマノオー、桜花賞馬シーエース、ジリ脚で知られた宝塚記念馬シーザーなどを輩出した。
1974年2月22日、伊達市の高橋農場で誕生。「大尾形」こと尾形藤吉調教師の目に留まり、1969年の皐月賞馬ワイルドモアなどを所有した東京鐵鋼創業者・吉原貞敏に800万円で購入された。
ちなみに吉原オーナーは「エア」冠名で知られるラッキーフィールドの吉原毎文オーナーの父であり、勝負服も同じである。
吉原オーナーはそれまで「モア」や「アイアン」といった冠名を用いていたが、本馬には苗字の「吉」から「ラッキー」、2代父ボールドルーラーから「ルーラー」を組み合わせ、ラッキーセブンの7文字となるように長音を縮めて「ラッキールーラ」と名付けられた。
※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。
幸運と不運の物差しは
同世代のライバルたちと
さてこのラッキールーラ、本記事冒頭にも記した通り、この時代としては類い希な巨漢馬であった。何しろ尾形厩舎に入厩した時点で既に530kgあり、デビュー前には560kgまで育ってしまったため、身体を絞りきれずにデビューが予定より遅れたという逸話が残っている。
そんなわけで6月デビュー予定だったが、2ヶ月遅れて1976年8月15日、尾形厩舎所属の伊藤正徳騎手を鞍上に函館・芝1000m戦でデビュー(以後、2戦を除いて伊藤騎手が騎乗した)。しかし3着、折り返しの新馬戦も2着に敗れ、一息入れて10月、中山の芝1200m戦で勝ち上がる。
続く300万下条件の白菊賞(東京・芝1400m)はカネミノブにハナ差敗れて2着、さざんか賞(東京・芝1600m)で2勝目を挙げたが、600万下条件のひいらぎ賞(中山・芝1600m)はプレストウコウに2馬身半差をつけられて2着。それぞれ後に八大競走を勝つ名馬と鎬を削りつつ、3歳は6戦2勝で終えた。
明けて4歳となっても、初戦の京成杯はヒシスピードにクビ差競り負けて2着(プレストウコウ3着)、東京4歳ステークス(現:共同通信杯)もヒシスピードに蹴散らされて4着(プレストウコウ3着)。
しかし続く弥生賞で初めて逃げの手を打つと、カネミノブ(2着)やプレストウコウ(3着)を寄せ付けず鮮やかにレコード逃げ切り勝ち。尾形師の85歳(!?)の誕生日に重賞初勝利を挙げ、クラシックへと名乗りを挙げた。
迎えた皐月賞は混戦ムードの中で1番人気はヒシスピード。ラッキールーラは4番人気であった。内の2枠4番からすっとハナを奪ったラッキールーラと伊藤騎手は弥生賞と同様にそのまま逃げを打ち、直線でも迫るヒシスピードを振り切って逃げ込みを図ったが、内ラチ沿いに潜り込んで突き抜けた天才・福永洋一のハードバージにあっさりかわされて2着。無念。
続いてダービートライアルのNHK杯に向かったが、ここは1番人気に支持されながらプレストウコウに蹴散らされて4着に敗れた。
"最も運のいい馬"は
というわけで迎えた東京優駿。"最も運のいい馬が勝つ"と言われるこのレース、"幸運"の名を持つラッキールーラが引いたのはしかし、28頭立ての7枠24番という外枠だった。これまで20番より外の枠でダービーを勝ったのは20番のクライムカイザーと21番のオートキツ・タケホープのみ。逃げ馬がこの枠では人気するべくもない。さらに当時は「デカ馬はダービーを勝てない」というジンクスがまことしやかに囁かれており、絞ってようやく534kgという巨体のラッキールーラは19.6倍の9番人気に留まった。
しかし尾形師の名人芸で仕上げられたラッキールーラと伊藤騎手のコンビは、好スタートから敢然とハナを取りに行き、1コーナー前で先頭を確保すると内に切れ込んで外枠の不利を消し去る。さらに向こう正面で抑えてワールドサバンナにハナを譲って2番手に控えて脚を残したラッキールーラは、直線でインから先に抜け出したカネミノブを目標に定めて二の脚を発揮。ワールドサバンナを振り落としてカネミノブを捕まえにかかったが、そこに外から襲いかかったのが皐月賞馬ハードバージ! ゴール前で3頭横並びとなり、カネミノブをかわしたところでハードバージが猛然と迫り、ラッキールーラとハードバージが並んだところがゴール板だった。
写真判定となったが、結果はアタマ差ラッキールーラが残していた。70年代に入って八大競走制覇から遠ざかっていた尾形師はメイズイ以来14年ぶり、これが8度目(!!!???)のダービー制覇。伊藤騎手は1936年にトクマサで勝った父伊藤正四郎との親子制覇となった。馬体重534kgでの勝利は、現在もダービー最大馬体重勝利記録である。
……ちなみに余談だが、尾形師はこの日の夜、自宅が火事で全焼してしまったという。ええ……
その栄光の価値は
かくしてその名の通り"最も運のいい馬"、栄光のダービー馬となったラッキールーラだったが……彼のダービー制覇の評価はというと、悲しいかな、全くもって高くはなかった。
問題となったのはまずダービーの勝ち時計。2:28.7というタイムは、この年のオークス(リニアクイン)の勝ち時計2:28.1より0.6秒遅かったのである。この時点でレースレベルが疑問視されるのは致し方ない。
しかし、それだけではなかった。勝ち時計以上に、ラッキールーラ自身にはどうしようもない理由で、この世代のクラシックの価値はそもそも最初から疑問視されていたのである。
そう、あの"スーパーカー"、"怪物"マルゼンスキーがこの世代だったのだ。当時、持込馬にもマル外と同等の出走制限がかけられ、無敗で朝日杯3歳Sをとんでもないレコードで圧勝したこの怪物はクラシックに出られなかった。そしてこのマルゼンスキーに完全に子供扱いされていたヒシスピードが皐月賞で1番人気だったのは前述の通り。ラッキールーラはマルゼンスキーとは結局一度も走っていないのだが、この年の牡馬クラシックは最初から「マルゼンスキー不在の敗者復活戦」と見なされてしまったのだ。
ラッキールーラはこのあと夏休みを挟み、10月の中山のオープンで復帰。ここを勝ったあと、京都新聞杯をプレストウコウの2着としたあと、菊花賞に1番人気で乗りこんだ。しかし九州産馬オサイチセイダイの無謀なハイペース大逃げを2番手で追ってしまったことでスタミナを使い果たし、あえなく15着に撃沈。
そしてこの菊花賞を勝ったのは、6月の日本短波賞で"なんか止まった"マルゼンスキーに7馬身ぶっちぎられたプレストウコウ。この世代の牡馬クラシック組の評価はこれで決定的なものとなり、ラッキールーラもそれに巻き込まれてしまったのであった。
幸運と不運を決めるのは
しかもラッキールーラは菊花賞のあと深管骨瘤を発症。休養に入ったのだが、これが延々と長引いてしまう。彼がターフに戻ってきたのは実に丸2年後、6歳となった1979年の年末だった。
復帰戦のオープンは7頭立ての最下位7着に撃沈。明けて7歳も現役続行したがなかなか結果が出ず、6月の札幌日経賞でプリテイキャストを退けて逃げ切り3年ぶりの勝利を挙げたが、その後は札幌記念9着、巴賞と函館記念はともに最下位に終わり、天皇賞(秋)や有馬記念に向かう予定を断念、現役引退となった。通算24戦6勝。
引退後はJRAが4500万円で彼を買い上げ、日本軽種馬協会で種牡馬入りした。しかし種牡馬となってもともとの巨体がさらに大きくなった結果、馬体重は700kgに達し、しかも巨根で遅漏だったため、馬格の小さな牝馬ではそもそも種付けに耐えられなかったという。
そんなわけで種付け数も右肩下がりとなり、6年目の1986年には僅か5頭まで落ち込んだが、翌年に3世代目の産駒トチノルーラーがきさらぎ賞(GⅢ)を勝ったことで少し持ち直した。しかし人気を取り戻すまでには至らず再び種付け数は減っていった。
そんな中の1990年の年末、彼はなんと韓国へと渡ることになった。本格的に競走馬の生産に乗り出した韓国サイドの要請で、日本から何頭かの種牡馬を寄贈することになったのである。同期のプレストウコウ、4歳下の二冠馬カツトップエース、マルゼンスキー産駒のヤマノスキーとともに、ラッキールーラは韓国へと渡り、そちらで種牡馬生活を送ることになった。
しかし韓国での種牡馬生活1年目の1991年5月、彼は放牧中にたまたま見掛けた牝馬に興奮して突進、柵に激突し左前脚の橈骨を骨折。手術が行われ一度は成功したが、麻酔が切れて目を覚ましたラッキールーラは痛みに暴れて再び患部を骨折してしまう。もはや手の施しようがなく、安楽死の措置がとられた。18歳であった。
残された韓国での僅かな産駒のうち、タンディチェイル(당대제일、当代第一)という牝馬が60戦25勝という成績を残し、韓国の内国産年度代表馬を3年連続で受賞したと伝わっている。
血統表
*ステューペンダス 1963 青毛 |
Bold Ruler 1954 黒鹿毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Miss Disco | Discovery | ||
Outdone | |||
Magneto 1953 黒鹿毛 |
Ambiorix | Tourbillon | |
Lavendula | |||
Dynamo | Menow | ||
Bransome | |||
トースト 1959 鹿毛 FNo.13-c |
ハクリヨウ 1950 鹿毛 |
*プリメロ | Blandford |
Athasi | |||
第四バツカナムビユーチー | *ダイオライト | ||
バツカナムビユーチー | |||
*フラワーワイン 1950 鹿毛 |
*ヴイーノーピユロー | Polemarch | |
Vainilla | |||
Mimosa | Royal Minstrel | ||
Bryonia |
クロス:Royal Minstrel 5×4(9.38%)、Pharos 5×5(6.25%)
主な産駒
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関連項目
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