ヤマブキオー(Yamabuki O)とは、1970年生まれの競走馬。鹿毛の牡馬。
ハクチカラ、オジュウチョウサンと並ぶ、JRA通算最多勝利記録の20勝を記録し、
同期のアイドルホース、ハイセイコーやタケホープに比肩する名馬である。
主な勝ち鞍
1974年:中京記念
1975年:ダービー卿チャレンジトロフィー
1976年:中山記念、京王杯スプリングハンデキャップ、金鯱賞
1977年:函館記念
概要
父*パーソロン、母アサマヒカリ、母父ヒカルメイジという血統。
父パーソロンはご存知シンボリルドルフと同父で、ヤマブキオーが誕生した年に産駒のメジロアサマが天皇賞(秋)を制覇、1971年、1976年のリーディングサイアーを獲得した一流種牡馬。
母アサマヒカリは1戦のみで引退だが、祖母のアサマフジは東京盃(現・東京新聞杯)を勝利している。
母父ヒカルメイジは1957年のダービー馬で、菊花賞馬グレートヨルカなどの八大競走勝利馬を世に送り出し、内国産馬の不遇の時代に一定の評価を得ていた。
※当記事は特に記載がない限り年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。
競馬ブームの裏側で
デビューは3歳12月。同月の2戦目で初勝利を飾っているが、ヤマブキオーは脚部不安を抱えており、春のクラシックシーズンは全休。
大井から来た第一次競馬ブームの立役者ハイセイコー、そのライバルの二冠馬タケホープらが鎬を削りあう中で、ヤマブキオーの名を知る者はいなかったのである。
4歳9月にようやく戦線復帰、条件戦を勝ち上がるが、年末までの4ヶ月間で7戦2勝。その中には当時父が外国産馬でも出走できたカブトヤマ記念がある。(結果は7着、翌年より4歳以上の父内国産馬限定競走となった)
ヤマブキオーの最初の真価は5歳。初戦こそ2着に敗れるも、その後3連勝で中京記念を制覇。
4月のオープンでシンガリ負けを喫し休養に入ったが、11月の復帰戦でハイセイコー、タケホープと最初で最後のマッチアップ。
3kgの斤量差があったとはいえ、単勝2.0倍の1番人気だったハイセイコーを2馬身下す完勝。タケホープも5着に下す大金星。
このあと、この2頭はヤマブキオーが出走していない有馬記念で引退のため、生涯一度のチャンスを見事にものにしたのだった。
そして初めての檜舞台、天皇賞(秋)へ出走したが、見せ場なく13着に大敗。3200mの長丁場はヤマブキオーには合わなかったのかもしれない。
6歳時は2月に東京新聞杯を4着、オープン競走を3着の後三度休養。11月に復帰し2戦目のダービー卿チャレンジトロフィーで重賞2勝目を挙げる。
年末には有馬記念にも出走、9番人気の低評価ながら外から鋭く追い込み5着に食い込む健闘を見せた。
明けて7歳。1月は金杯5着、AJCC9着と勝ちきれない競馬が続き、衰えが見られたかのように見えた。
ところがここからヤマブキオーは更に進化。条件戦を4馬身差で快勝すると、中山記念で重賞2勝目。
続く京王杯スプリングハンデもトップハンデの58kgもなんのそのの勝利で重賞を連勝。
アルゼンチン共和国杯、高松宮杯ではそれぞれ2着、3着に敗れるも、金鯱賞は京王杯を更に上回る61kgを背負いながらアタマ差で重賞5勝目。
安定感のある走りを見せ、若き日の悔しさを晴らすように重賞戦線を戦っていった。
この頃、1歳年下のアイフルと同じレースに出走することが多く、10月のオープンをヤマブキオーが勝つと、お返しとばかりに11月のオープンではアイフルが勝利と、互いに勝利と敗北を繰り返す、ライバルのような関係だった。
アイフルとの雌雄を決する舞台は天皇賞(秋)。ただ、前年の有馬記念イシノアラシや春の天皇賞2着のロングホークに比べると、どうしても見劣りする感はあったが……。
そしてこの天皇賞を制したのはアイフル。ロングホークを競り落とし、ハーバーヤングの猛追も凌いでの優勝。一方のヤマブキオーは8着。8戦続いていた複勝圏からも転落と、完全に明暗が別れてしまった。
年末の有馬記念ではトウショウボーイ、テンポイントの激闘から遅れて3着にアイフル。ヤマブキオーは4着と、安定感はあるが、大舞台になると勝ちきれない、詰めの甘いところがあった。
そして8歳。現年齢でも7歳と、もう上積みも見込めない年齢に差し掛かったヤマブキオーであったが、彼はなんともう1段ギアを隠し持っていた。
AJCCでグリーングラスの2着に食い込むと、2月のオープン戦を勝利。中山記念は1番人気を背負いながら5着に敗れるも、4月にオープンを勝利。スプリングハンデキャップで62.5kgを背負い5着に敗れたのち、8歳夏にしてまたも覚醒する。
6月地方競馬招待競走でこの年の3勝目を挙げると、札幌での短距離Sではマルゼンスキーのレコードの前に3着に屈するも、巴賞では62kgを背負いながら1馬身差で勝利。そして函館記念で背負わされた斤量は63.5kg。生涯一の負担重量となったが、それすらもものかわ、アタマ差で重賞6勝目を挙げた。
しかし、流石に斤量がキツすぎたのか、函館記念ののちに休養、年齢も年齢なので、そろそろ引退の二文字もちらつく頃だが……。
9歳。ヤマブキオーは現役を続行。しかもここで復帰戦にも関わらず61kgを背負いながら、前年のスプリンターズSを制したメイワキミコをアタマ差で下すという、現代では到底考えられない芸当をやってのけた。
続く中山記念は3着に敗れるも、3月のオープン戦で勝利し、JRA通算20勝。これはハクチカラと並ぶ平地勝利数最多タイ記録となり、若き日に出走すらできなかったクラシック、そして縁がなかった八大競走、すべての悔しさを晴らすような大記録を打ち立てた。
その後は11月まで休養の後、オープン戦を4着。ラストランの有馬記念は15頭立てのシンガリ人気で最下位入線。翌年に東京競馬場で引退式が行われた。
引退後は十勝軽種馬農協で種牡馬入りしたが、産駒はあまり走らなかった。
内国産馬の冬の時代というのもあったが、重賞馬を輩出することも叶わないまま、1983年に睾丸の病気で受精能力が急低下。翌年8月、心臓麻痺で死亡。15歳の若さだった。
最後まで八大競走とは無縁だったが、足掛け6年に渡った競走生活は47戦20勝。
何よりも3億円に届こうかという獲得賞金は同期の中では最多。これはハイセイコーに1億円近く差をつけ、タケホープとはほぼダブルスコア。
第一次競馬ブームの裏でこれだけの成績を叩き出した馬がいたことはどうか覚えておいてほしいものである。
業績と異名
戦績は上記の通り47戦20勝。障害競走を含めればオジュウチョウサンがJRA通算20勝(平地2勝、障害18勝)を達成しているが、平地競走のみでこれを達成した馬はハクチカラ、ヤマブキオー以降存在しない。
もっとも、現代の競馬のローテーションはかなりゆるく、GⅠの舞台でも前哨戦を1戦、もしくは直行が当たり前となっている。
レース体系も平場のオープン戦もなくなり、当時と状況が異なるのは言うまでもないが、この平地でのJRA20勝という記録は恐らく今後更新されることはないかもしれない。
また、ヤマブキオーには異名がある。
一つは「オープン大将」。戦績を見るとわかるが、平場のオープン戦で7勝と滅法強かった。ハイセイコー、タケホープの両馬を下したのも平場オープン戦である。
もう一つは「千八のヤマブキオー」。1800m戦に限ると17戦で(11-1-1-4)と、圧倒的な成績を残している。先のオープン戦も1800m戦だった。
奇しくも時代は長距離が重視された昭和。時代が時代だったらマイル戦や2000mのGⅠをいくつか取れていたのではないか。(記事作成時点でもJRAには1800mのGⅠは存在しないが……)
血統表
*パーソロン Partholon 1960 鹿毛 |
Milesian 1953 鹿毛 |
My Babu | Djebel |
Perfume | |||
Oatflake | Coup de Lyon | ||
Avena | |||
Paleo 1953 栗毛 |
Pharis | Pharos | |
Carissima | |||
Calonice | Abjer | ||
Coronis | |||
アサマヒカリ 1965 黒鹿毛 FNo.3-e |
ヒカルメイジ 1954 黒鹿毛 |
Bois Roussel | Vatout |
Plucky Liege | |||
*イサベリーン | Canon Law | ||
Legal Tender | |||
アサマフジ 1959 黒鹿毛 |
*ゲイタイム | Rockefella | |
Daring Miss | |||
キヨハ | *プリメロ | ||
第弐オーイエー |
クロス:Avena・プリメロ 4×4(12.50%)、Tourbillon 5×5(6.25%)
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